クリスチャン『機械より人間らしくなれるか?』(イシグロのノーベル文学賞受賞を祝って)
囲碁や将棋のトッププロが人工知能に負け,「人間の棋士にしか見せられないものを」みたいなことが言われるようになって久しいわけですが,そういうことは,これまでもあったし,これからもあるでしょう。
チューリングテストに参加する人間も,似たように状況に直面するようです。
チューリングテストとは,コンピュータが知能を持っているかどうかを判定するためのテストで,電子的にチャットにおいて,審判(人間)から「人間」と認められるなら,「知能がある」ということにするというものです。審判(人間)には「知能」があることが前提になっているところが洒落ています。
チャットの一方の側には審判(人間)が,もう一方の側には人間またはコンピュータがいるわけですが,人間は,どちらの側に立つにしても,相当なプレッシャーになるでしょう。審判のときは,相手がコンピュータであることを見破れないと恥ずかしい,審判が相手のときは,コンピュータと見なされるのが恥ずかしい。
この後者,つまり審判とチャットする立場に立った経験をもとに書かれたのが,『機械より人間らしくなれるか?』(文献リストあり・索引なし)で,出版されたのは今日の人工知能ブームの前ですが,今読んでも十分楽しめます。
これに関連して,ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を思い出します。これはすごい小説で,村上春樹さんも,『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の中で,「最近,深い感銘を受けた本はありますか?」という質問に応えて次のように言っています。
小説で最近ノックアウトされたのは、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』かな。彼は僕が最も高く評価する同世代の作家の一人です。上手なだけではなく魂がこもっている。(p.462)
この小説には二つの大きな秘密が隠されています。①主要登場人物が生まれた理由と,②彼らが芸術作品を作らされた理由です。ノーベル文学賞に関連する報道で,第1の秘密は大々的にバラされてしまいましたが,映画化もされた作品ですし,これからこの作品を読もうという人も,これについてはすでに知っているでしょう。実際,イシグロ自身,『知の最先端』に掲載された「愛はクローン人間の悲しみを救えるか」という対談で,「この小説は最初から読者が結末を知っているかどうかは、重要ではないと思います(p.179)」と言っています。
打ちのめされるのは第2の秘密のほうで,囲碁の時も将棋の時も,それが私に『わたしを離さないで』を思い出させました。そういう意味で,最近の状況をうまく切り出した作品だと思います。
そうは言っても,イシグロが登場人物に求めさせた「人間らしさ」は,囲碁や将棋,その他あらゆる分野において,小説に描かれたのとは別の理由で「それで?」と言われてしまうものになりつつあり,未来はこの小説よりもつらくなる気がしています。
おまけ1:ノーベル賞をきっかけに,既存の翻訳が見直されるといいですね。たとえば『遠い山なみの光』では,「chess」が「将棋」になっているのですが,両者はかなり違うゲームなので,そういうことはしない方がいいと思います。
Do you remember, Jiro, when I first taught you this game, how I always warned you about using the castles too early?
おまえに初めて将棋を教えたころ、あまり早くから角を使うんじゃないと、しじゅう言っていただろう?(p.181)
おまけ2:『知の最先端』p.197より
英語で書く作家が注目されますから、ほかの言語で書く、非常に貴重な作家が無視されているという危険がすでにありますね。従来は、たとえば、ラテンアメリカもそうですが、世界のいろいろな国から頭角を現してくる、非常に興味深いスタイルをもった作家がたくさんいたのです。少なくとも日本は、孤立した状態で成長したので、そこで作られた映画は非常に興味深いといえます。
英語の覇権で、世界が文化的にあまりにも均一化されてしまうと、こういう多様性を見逃してしまうでしょう。料理に譬えると、みな同じ料理を食べたら、面白くないということです。インド料理、日本料理などいろいろあるから面白いのです。ですから、私は世界中の作家が同じような方向で書いている時代に急速に向かっていることに、いささか当惑しています。
おまけ3:村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(p.345)
彼自身は「日本語は話せない」と言うけれど、スコットランド人の彼の奥さんは「カズオはけっこう流暢に日本語が話せるわよ」と僕にこっそり教えてくれました(笑)。でも彼は日本語を話したくはないのだろうと、僕は理解しています。とくに日本では。たぶん彼にとって、彼の日本語は十分ではないからでしょう。
外国語というのはそういうものだろうと思います。