20世紀の最も重要な小説の一つと言って間違いないジョイスの『ユリシーズ』は,当初は出版すら許可されない危険な小説でした。

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『ユリシーズを燃やせ』で描かれているユリシーズ合法化のプロセスは,「言論の自由」が当然の今日からすると,非現実的にすら見えます。しかし,原著から何十年も経った現代でも,ユリシーズの日本語訳に関しては,おかしなことが起こっています。

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ことの起こりは1996年,すでにユリシーズの翻訳の一部を河出書房から出版していた柳瀬尚紀さんが,「翻訳実践の姿勢」という文書(『翻訳は実践である』に収録)で,集英社から出版された丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳と,朝日新聞の紙面で両者の翻訳を比較した池澤夏樹さんをコテンパンにやっつけたことだと思います。

最近では,時間の無駄だからとか,ダメなものはどうせ消えていくからとかいう理由で,他者を批判することをよしとしない風潮がありますが,柳瀬さんはそうではなく,ダメなものはダメだとはっきり言う人でした。

それで結局どうなったかというと,柳瀬さんの翻訳は,ユリシーズ全18挿話のうち,1から6と12挿話だけが出版されたところで止まったまま現在に至っています(7,8,11挿話は後で文芸誌で発表されましたが,単行本にはなっていません)。

柳瀬さんの訃報記事では,「ユリシーズ翻訳の完成を目指していた」とありますが,翻訳はすでに完成していて「出版を目指していた」のだと私は思っています。河出でも新潮でもかまわないので,出版してください,お願いします(表紙は青,分冊でなく一冊で)。

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英和辞典を新潮社から出版する予定だという話を聞いて楽しみにしていましたが,さすがにこれは完成してはいないでしょう。(『辞書はジョイスフル』によると)柳瀬さんが高校時代,ふとんのなかにもトイレにも持ち込んで読んだという『熟語本位英和中辞典』が,表記を現代的に改めて岩波書店から出るとのことなので,それであきらめることにします。

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私が柳瀬さんを知ったのは,月刊『大学への数学』でのインタビュー記事(『学問は自由だ』に収録)でだったか『ゲーデル,エッシャー,バッハ』の訳者の一人としてだったかは,もはや思い出せないのですが,いずれにしても,「人生において大いに影響を受けた」と言えるようになりたいものです。

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追記:『熟語本位英和中辞典』(CD-ROM付き)が2016年10月26日発売されました。

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追記:『ユリシーズ1-12』が2016年12月2日に発売されました。