僕たちは、今まで、何度、世界を救っただろう?
PlayStation発売20周年特設サイトで公開されている特別映像、『みんなのゲーム愛にありがとう。』が感動的でした。
もとの動画は消えてしまったので,別のものを張ります。見えなかったら「みんなのゲーム愛にありがとう。」で検索してください。
僕たちは、今まで、何度、世界を救っただろう?
しびれますね。ドラクエなら、8と10以外は救いました(8は私的エンディング「鋼の剣」まで)。しかし、私たちが世界を救えるのは、救うというのが大げさなら、私たちが世界をより良くできるのは、ゲームの中だけではないかもしれません。
もしゲームで遊ぶことで正義感が養われるとしたら。そういうゲームでたくさんの人が遊べば、正義感を持つ人が世の中に増え、その人たちの行動で、世界は良くなるかもしれません。
たとえば、自分の人生を犠牲にして国家の不正を告発したスノーデン。彼の正義感がどうやって養われたか、興味深い話が『暴露』で紹介されています。
より大きな善のためであれば、自分自身を犠牲にしても良心に従うという信念はどこから来たのか
(中略)
彼がビデオゲームに熱中する中で学んだことというのは次のようなものだった—たとえ大いなる不正がはびこっていても、たった一人の人間でもそれを正すことができる。
(中略)
スノーデン世代の人間は、文学やテレビ、映画と同じように、ゲームを通じて政治意識やモラルを養い、この世界における自らの居場所を見いだしている。彼らはゲームの中で複雑な道徳上のジレンマに直面し、物事を深く考えるようになるのだ。(No. 1046/5322)
デジタルではありませんが、すごいゲームが『小学4年生の世界平和』で紹介されています。小学校の教室で行われるこのゲームは、子供たちが国や国連の代表となり、与えられたたくさんの国際問題を解決する、いわゆるシリアスゲームです。人気者の男子が独裁国家を作ろうとしているときにおとなしい子供たちがとった行動や、教室のほとんど全員に批判されながらも石油施設の武力制圧を続けた女子の洞察は、一応大学教師の私にとって、ほとんど「奇跡」です。
脅しに屈し、平和に潜む英知を忘れてしまったら、必ずその過ちを思い知らされるということだ。遅かれ早かれ、暴君は追い落とされ、残虐な武人は打ち負かされ、不当なリーダーは倒される。正義が実現するまでには、多くの個人が苦しむことになるかもしれない—命を失うこともあるだろう。しかし究極的には、結束した集団の集合的な英知は、正義が行われるまで倦むことのない、ある種の対抗力を生み出すものだ—そして成功するものだ。四年生にだってそれはわかるのだ。(No. 3021/4983)
ゲーム脳だとか暴力性だとか、ゲームの悪い影響(?)についてはいろいろ言われますが、どうせこの世からゲームをなくすことはできないのですから、良い影響についても強調していくべきでしょう。
ゲームを作っているかつての学生たちは、どういう世界を作りたいかという思いをリアルな世界の方にも向けているはずです。
いけないと思いつつ「はい」と答えますよね。
古くは「殺してでもうばいとる」や「ゆうべはお楽しみでしたね」、比較的最近ではGrand Theft Autoなどにも私たちは惹かれてきたわけですが、それはそれで、そういう反応を引き起こすだけの道徳観というものを私たちが持っていることを示しているようにも思います。
もちろん、正義感とは何の関係も無いマリオカートが最高のゲームの一つであるのは間違いありません。
追記:研究によって明らかになったゲームが人に与える良い影響(Lifehacker)
追記:デイヴィッド・パトリカラコス『140字の戦争』(早川書房, 2019)の中でエリオット・ヒギンズは,「いまの仕事に必要なスキルのほとんどは、ゲームで培ったものですね(p.216)」と言っています。